いつだって大げさなのだおれは。
中古の原付を買うとなったら車体価格よりも高いヘルメットを買ってしたり顔になったり。
アパートの引越しに見栄張って4tトラック出してもらったり。
まぁそんな感じでいつだって大げさなの。
でもね、今回は違う。
動けないの。
ぎっくり腰なの。痛いの。
絶望を人間の五感で味わえるとしたら多分これがそう。
痛いの。
ぽつぽつと今月もレコーディングが入っておりますがぁぁぁ。わぁぁぁ。
うわぁぁぁぁぁ。
facebookばかり気に掛けていたら、こちらのブログをすっかり放置状態ですわ。
さてさて、そんなこんなで久しぶりの報告は・・・
いま風邪引いてるぜ!!ざまーみろ!!
むぅ。
ということで最新のライブ予定です。
☆1/25(金) 渋谷ウェステッドタイム☆
旧友の二宮アキラも出るんです。
はぁ。ラーメン食べたい。
今月に入り、空手道場に再入門。
気が付けば10年。
腹も出たしオデコも広くなったし。んー。
とにかく小さなうねりを見つけては、ふざけ半分で足を踏み入れてみる。
人生、3分の2くらいは冗談じゃなくちゃ嫌だ。
ということで稽古の後は疲れきって楽器も弾けないこのザマですわ。
冗談やるにも体力が必要だな。
5年ぶりに、バイクをゲット。
縁あって、会社の上司からタダ同然で売っていただいた中華製125ccの面白スクーター。クインキーというメーカーの、BTL125というなんだかサンドイッチみたいな名前のオートバイ。
詳しいスペックは謎。調べようが無いからたぶんずっと謎。とにかくタコメータ見てる限りリミッターは無し。常に給油したい衝動を忘れさせない4ℓタンク。フルフェイスのヘルメットを頑なに拒否し続けるコンパクトなメットイン。ハザードとかパッシング機能とかたぶんおれ使うタイミングとか一生分からない。
でもなんだか一緒に出かけたくなるような愛嬌のある顔と、一生懸命に回るエンジンがかわいくて仕方ないです。
ワケあって、「あぁ、もうバイクには一生乗らねんだろうなぁ。」なんてふて腐れ続けて早5年。
なんとなく、ライダー復帰のリハビリを開始しようかと思っていた矢先の絶妙なご縁。
以前跨っていたオートバイとは比べ物にならないくらい小さなバイクなんだけれどもね、逆光の中の信号に目を細めたり、ウィンカーのプッシュキャンセルを忘れたまま走ったり、かじかんだ手を缶コーヒーで温めたり。
そういうのが一気にフラッシュバックして、時折涙が出そうになります。
こいつに乗って釣りに出かけたり、買い物したり、銭湯に行ったり。
日常のちょこっとした隙間をピッタリと埋めてくれるのが、おれにとってのオートバイという存在。
久々にまた少し、悪巧みを考えてしまうのです。いひひ。
図鑑を見るのが好きです。
昆虫とか、恐竜とか。
細菌の図鑑もあったのだが、買って間もないうちにどっかに行ってしまった。
おーい、細菌。大腸菌やーい、ピロリ菌やーい、Q熱リケッツィアやーい。
目を凝らしてみれば、ミクロも無限も変わらんね。
海はだいじょうぶかな。
恩納村の浜で採れた両手一杯のアオサや、伊豆の海で釣り上げた黒鯛は大丈夫かな。
風、風はどうだろう。
湾岸道路ではいつだっておれの進行方向とは真逆に吹き抜けていく風は。隅田川の桜を大きくゆっくりと散らした優しい風は。風は大丈夫かな。
川はどうだろう。鮎たちは、今年も無事に荒川を昇りきったかな。
葉はどうだろう。仙台堀公園のおおばこの葉はだいじょうぶかな。陽の光とたっぷりの水で、きらきらしているかな。サイダーのガラス瓶一杯に詰め込んで薬草ごっこ。
どんなケガでも治してくれる、魔法のおおばこ。
ひとはどうだろう。
目を閉じれば宇宙に行ける。目を開ければ、見たいものがいつでも見れる。
どちらも真実。
信じられない人と、信じてしまうが故に自分の在り処がわからなくなってしまった人。
ひとはだいじょうぶかな。彼も彼女も。おれも君も。
明日は素敵な人と会いたいな。
しっかし、眠れないなぁ。
一度覚えたインスタントな贅沢は、なかなか捨てられない。
なんというか、贅沢を知る度に、自分の中のいろいろなものを人質に取られているんだろうな本当は。
街を歩けば、幹線道路では黒塗りのドイツ車が軽トラックを煽り、カードローンの立て看板が電柱のふもとで腐りながら風にうなっている。パチンコ屋の自動ドアが通りすがりにだらしなく開いて、無秩序なBGMで我に返って、ちょっと早足になってみたりする。
たぶん怖いのだ、おれは。
足りなくなった感性や想像力を埋めるために、報道番組や新聞を見て一喜一憂、知ったふりをして今日も一日ご苦労様。冗談みたい。
この国が狂っているように、たぶんおれたちも相当にアタマをヤられているに違いない。
描けば描くほど、ほんとはみんな好きなだけ自由になれるのにねぇ。
誰かが切って張って昨日か一昨日辺りに作った危うい価値観に、自ら縛られてみたりする。
忌わしきを鏡に。
おれの目に映るのは、いつだっておれだ。
慎ましい、という生き方が怖い。
原始を思い出しつつ、前に進む方法が解らないから。
でも忌わしい生き方は、もっと怖い。
取られた人質を、ひとつずつ取り返していこう、と思った。
嫌いなものを大きな声で言うヤツと、好きなものを一方的に人に伝えたがるヤツ。
これ、自己主張のベクトルが違うだけで、質は同じものだと思うの。
どちらも歓迎されない。
稚拙。
好きなものを好き、と言えないことはとても寂しいことだと思うけれど、言わなきゃ、他人に伝えなきゃ自分自身を確認できないってこともそれはそれで寂しいことだと思うのですよ。
おれのことを、「秘密主義だ」なんていうヤツがいるけれど、そんな下らんもので主義主張した覚えは無い。
秘密じゃない。
自己完結してるだけなのだ。うらやましいか、へへっ。
大きな流れを感じた後には、小さな小さなミクロな自己の世界へ。マクロからミクロへ。
その間を行ったりきたりすることで初めて、物事の本当の大きさが解るんじゃないかなぁ。
自分じゃなかったことに感謝をするのが人間で、なぜ自分には・・・と嘆くのも人間で、欠如した想像力は自分の人生と他人の人生を都合よく切り離したり重ね合わせたりを繰り返して、まるで幼稚な紙粘土細工みたい。
いじくり回しているうちにそのうち乾いて固まって、自分が見えなくなる。
思いやりとか優しさとか、いちいち定義する暇があったらなぁ、想像しろよ、と。
思いをめぐらせて、目の前の人の抱えてるバックボーンとか欲求とか苦しみとか企みとか。
与えたり受け取ったり、そういうんじゃなくて、ほんとシンプルな言い方をすれば「めぐらせること」に生命の目的はあるんじゃないかと。
おれはそう思う。
おれの不愉快は、難しい。我ながら、難しい。
なんだろう、この気持ち。
書いていても言葉にしても、自分で何が気に食わないのかぜんぜん分からないんだよな、正直。