どうでしょう。
Yo-Hendrixの、アンダーグラウンド其の壱。
Hendrix【言の葉】
へっへっへ。
感性ってのは時として、いや、例外なく、自分の抱えている倫理観や常識なんかをあっけなく逆流するものなのだろう。
人間の本質が、その「感性」にあるのだとしたら、人間そのものってのは、常識や倫理の枠を一切取り払って初めて確かなものになる、ってことか。
創作活動をしていて、なんとなくそう思うことがある。
今までまったく形の無かったものを、時間をいくらか掛けて「楽曲」ってものにする。
それって、とってもシンプルで分かりやすい人間のクリエイティブな活動なわけだけれども。
どうもそこに生きていく上での、それはそれは大変な問題があるらしい。
理屈が無いんだ、そこに。
道理や決まった作法、方法なんてものが、一切無い。
「常識」とか「正義」とか、そういう常日頃信じきっているハズのものをあっさりと逆を行く、あいや、飛び越えてしまうものなんだ。
誰かのためとか、どういう目的でとか、そういうものが一切無い。
いつだって、曖昧なのだ。
でも、なんとなく、だけど確かにあるその「曖昧な部分」を信じてみることが、自分自身の本質に近づく第一歩なのかもしれないな、と思う。
そこにたしかにある、絶対的な「何か」に近づくためには、一度でもその「曖昧」を信じてみることが必要なのだ。
きっといつだっておれたちを突き動かすのは、簡潔な理屈なんかじゃなく、なんとなくだけど確かに頷けるような、そんな「納得」なのだ。
ずぅぅっと考えている。
会社の後輩に、「Hendrixさん、肩の力の抜き方を教えてください・・・」って、まじめな顔で質問されてしまったのである。
なんというか、普通に失礼な質問なわけであって。
で、その質問の後すぐに、彼は詳細不明の長期休暇に突然入ったわけだが。
その質問を家に持ち帰って、しばらくおれなりに考えてみたものの、彼に応えてあげられるような明確な答えは出ず、いやぁ、そろそろおれまで悩み始めてきたじゃないか。
ただひとつ言えることといえば、自分の過剰な力加減に気が付いてしまったときってのは、そりゃぁもう自分自身が窮屈でたまらくてどうしようもなくなってしまっているときでもあるのだろう。
時には苦しくて、死にたくなってくる。
ただ、得てしてそういう時は、昨日までの自分が薄皮一枚くらいになっていて、なんかの衝撃やきっかけで、その薄くて頼りない皮膚が、ずるりと一瞬で剥けてしまう時でもある気がするのだ。
変わるから痛いのか。
痛いから、変わらなくちゃいけないのか。
果たしてどちらが先に来る話なのかはよく分からないが、とにかく痛かったり窮屈だったり、それが明らかに自分自身のせいだ、って感じたときはもうこれとないチャンスなのではないかと。
おれ自身、自分の感性がたったの数時間でぐるりと変わってしまった経験が無いわけでもない。
手足が千切れるくらい、ずぅぅぅぅっともがき続けていたある日、ちょっとした出会いや、風景を見て、とたんになんだか身体が軽くなっていくというか、昨日までの事が全部バカバカしくなってくるというか。
理屈とかはよく分からないけど、ある日を境に急に視界がクリアになる感じ。
なんだかうまく言えないけど。
とにかくね、人は変われるんだと思う。
年齢とか経験とか、そういう面倒な話は関係なく、ただ単になんとなく「変わりたい」と思ったときがチャンスなのだ。
おれは、そう思う。
昨日、内視鏡を入れられた。
結局おれの症状は痔ではないらしく、肝心の出血や腫瘍は見当たらず。ひとつ原因らしいものといえば、前立腺が少し腫れている、ということくらいらしい。
先生曰く、たぶん自転車のせいだ、と。
次のライブのMCでのネタを手に入れた、と意気揚々としていたところ。むぅ。
綺麗な看護婦さんの前で尻まで出したんだ。タダでは帰らんぞぅ・・・なんて。
最近、人生の目的ってのは、「どうでもよくなる」という事に尽きるなぁ、と思う。
誰かの在り方や、言動なんてものは、そうだどうでもいいのだ。本来は。
尊重さえできれば、遠ざける必要も踏み入れる必要も無い。それぞれが、それぞれの領域でせいいっぱい生きてみればいいのだ。
おれは、戦わずして勝つ方法をずぅぅっと探している。
何だか最近、でっかいヒントを得たような気がする。
そうか、どうでもいいのだ。
ずっと気にかけていた友達が、今日の仕事帰りにコロコロ笑っていた。
今日は気分がいいから、キノコのカレー大盛りとめかぶスープ、キノコのカレーが余りにも淡白だったから、冷蔵庫でいい加減くたびれていたスライスチーズを一枚乗せてみる。
食後はコーヒーとラークマイルドで。
なんて、いい気分なんだろう。
むん。むふぬん。ふぬぅぅっ。
ほんむぬうふあはうんっ。
って。
最近なんかこう、力が入ってる人を見ると、力が抜けてくるようになった。
なんとなく、日々を生きていくのにそんなに筋力って必要ないんだと思う。たぶん。
ここんところあんまりブログを更新してなかったのは、仕事から帰ってきて料理作ったりするのがやたらと楽しかったり、コーヒー飲みながらギター弾くのがもうなんかたまらなく自分の中で癒しになったり、まぁたぶんあれだ、あんまり興味がなかったんだ。活字に。
今年初のライブもなんとか上手く出来まして、相変わらずの集客力の無さに今年も我ながら唖然としてしまいまして、まぁ演奏が良かったから反省もそこそこに。
何だか最近、誰かに試される事が多いなぁ、と思う。
それは言葉だったり、行動だったり、時には何もされないことで試されていたりするのかもしれないのだけれど。あぁ、なんか正直あんまりそういうの好きじゃないなぁ、とやっぱり思う。
今日ここにいるこの姿が、おれの答えなのになぁ、なんて。
人生において大そうなテーマなんぞは残念ながらおれは持ち合わせていないものだから、毎朝目が覚めて、コーヒー飲んでタバコ吸って、仕事したりしなかったり、ギター弾いたり曲作ったり、まぁそんな感じで自分なりの答えを日々出し続けているのだ。
あぁなんだかこう書くと、腐った木綿豆腐のような毎日なのだけれども、それでも伝えなきゃいけないことと、伝えなくてもいいことの区別くらいは付いているつもりだ。
あ、そういえば今年は一匹もカレイを釣り上げてないや。これから春鰈のハイシーズンだなぁ。
来月からはここのブログ、釣りレビューが多くなる事請け合いなんで、興味無い人はパソコンモニターの向こう側でハナクソでもほじっていてくれ。
ということで、向こう一ヶ月のライブを
2月6日(土) 渋谷ウェステッドタイム(ロックバンド【ゴッチ】での出演)
2月24日(水) 高田馬場天窓 (久々の天窓。ソロでの出演。スタッフみんな元気かなぁ)
よろしく。
久々に買った喧嘩が、やっぱり面倒臭かったわけで。
一週間以内なら返品可能か。
人を打ちのめす事に妙に高いモチベーションを持ち続けている人がおれは苦手なんだやっぱり。
お望みならば、もう立ち直れないくらいひどい言葉をプレゼントしても良かったのだけれど、やっぱりおれの中で喧嘩ってのは冗談の域を出ないものなので。
戦う、って、本当に面倒だ。
自分と戦うのも、他人と戦うのも、そこに不毛な何かを見つけてしまった瞬間に、もうどうでも良くなってしまう。
戦うってのは、不毛だ。
~次回のライブ~
なんとなく悲しい気持ちのとき、ってのがある。
困っているわけでもなく、なにかに立ち塞がられているわけでもなく、ただただ、ここにいることそのものがなんとなく悲しいのだ。
おれのことを嫌いだ、といった彼と。
金持ちとじゃないと結婚しないという彼女と。
バンドでテレビに出ることばっかり考えてるあいつと。
今日すら決められないおれと。
引っ越しを控えて、大きなライブを間近にして、今まさに引き篭もり真っ只中。
仕事なんて知らねぇ。勝手にしやがれ、なぁんて。
憂鬱なんだ、とにかく今おれは。
友達を勇気付けたり、元気にしたりするために毎日悩もうかと。
この際自分の在り方なんてものはどうでも良くて、とにかくもう、友達一人一人に、「君のことが大好きで仕方が無いんだ」ということを、毎日思って伝えて。
伝えなければ、思っている意味なんてないじゃないか。
おれと一緒なら、君が泣いた分くらいはきっと取り戻せるぜ。
約束するぜ。
今夜、おれはそういう風に生きていけたらいいな、と思いました。
なぁなぁ、君と彼と、んーあとは一杯いすぎて分からないけれど。優しい人たちのおかげなんだぜ。
泣いてもいいと思うんだ、おれは。
だってこうしておれが君を慰めていられるのは、紛れも無く君のおかげなんだから。
可笑しな話だけれど、エネルギーってのはいつだってこうして巡るんだと思う。
なんだか冷気が部屋に入り込んできたようで、この時間になって我慢できずにハロゲンヒーターの電源を入れてしまった。
ちょっとお金を貯めて、オートバイを買おうと思った。
今日ある人から、「だれか私のこと悪く言ってる人いない?あなたはどう??」なんて相談をされた。
正直、そんなことはおれにとってどうでもいいし、悪口を言うほうにも言われるほうにも、はっきり言って興味が無い。
妙な答えを期待するなよ、おれに。
信頼よりも先に来る期待は、いつだって苦痛の他なんでもない。
誰が誰を、だなんて、おれにはひとつも関係ない。
おれがそこに居ることで機能する事があるなら、おれはそこに居続けるし動き続けるし考え続けるだろう。
だけど誰かの悪口を聞くためだけの時間は、おれ自身、自分の中に見当たらないのだ。
そんなことはおれじゃなくてもいいだろう別に。
おれを見くびらないで欲しい。
だけど期待もしないで欲しい。
ぶれ続けたままの人生は、なんだかとても寂しい気がした。