感性ってのは時として、いや、例外なく、自分の抱えている倫理観や常識なんかをあっけなく逆流するものなのだろう。
人間の本質が、その「感性」にあるのだとしたら、人間そのものってのは、常識や倫理の枠を一切取り払って初めて確かなものになる、ってことか。
創作活動をしていて、なんとなくそう思うことがある。
今までまったく形の無かったものを、時間をいくらか掛けて「楽曲」ってものにする。
それって、とってもシンプルで分かりやすい人間のクリエイティブな活動なわけだけれども。
どうもそこに生きていく上での、それはそれは大変な問題があるらしい。
理屈が無いんだ、そこに。
道理や決まった作法、方法なんてものが、一切無い。
「常識」とか「正義」とか、そういう常日頃信じきっているハズのものをあっさりと逆を行く、あいや、飛び越えてしまうものなんだ。
誰かのためとか、どういう目的でとか、そういうものが一切無い。
いつだって、曖昧なのだ。
でも、なんとなく、だけど確かにあるその「曖昧な部分」を信じてみることが、自分自身の本質に近づく第一歩なのかもしれないな、と思う。
そこにたしかにある、絶対的な「何か」に近づくためには、一度でもその「曖昧」を信じてみることが必要なのだ。
きっといつだっておれたちを突き動かすのは、簡潔な理屈なんかじゃなく、なんとなくだけど確かに頷けるような、そんな「納得」なのだ。
この記事にトラックバックする