テレビだなぁ、と思う。
ありゃぁ、ほんとうに怖い。
少し前に、職場の人間から「テレビも見ないで、どうやって世の中の情報を手に入れるの?」と問われたことがある。
おれはテレビを見ない。必要ないのだ。
自分の感じたもの、見たもの、聞いたものが全てだから。
おれの周りにはバナナで痩せた人も浜崎あゆみファンも江原さんの本を買って幸せになった人もいない。
メディアが嘘をついているかどうかは知らないが、おれの目の前で起こっていること、そこで感じたことがあるということは紛れもない真実だ。
テレビってのは何も考えないでいても、ただ見ているだけで情報らしきものが頭の中に流れ込んでくるのだ。
全ての番組は多くのスポンサーがいて成り立っている。ニュース番組も然り、だ。
まぁ、既存の多くのメディアがそうなんだろうが。
世の中は、おれたちが思っているほど透明ではないのだなぁ。
知らない人たちが、おれたちの知らない手段で、おれたちの知らない間に仕掛けを仕組んで。
小さな時限爆弾みたいなのが、さも偶然を装って不定期に爆発を繰り返しているようなものだ。
何を信じるか、よりも、まずは「自分を信じられるかどうか」というところから始まることばかりなのだなぁ。
先日、友達と少し長い電話をした。
近況やら、まぁそんなたわいもない話で盛り上がってみた。で、何かのきっかけがあってちょっと真面目な話になった。将来の話やら、自分の置かれている現実の話などだ。
おれは風呂上りのまま、トランクスとTシャツ姿で、うんうん、と頷きながら聞いていた。
言葉ごとに少し間をおきつつも、ゆっくりと、確かに友の話に耳を傾けながら。
タイミングを見ながら、少し気の利いたことを幾つか言ったつもりでタバコに火をつけて、どかっ、と部屋の隅にある座椅子に腰を下ろした。
しばらくしんみりと話を聞きながら、ふと自分の懐に目をやる。
キ○タマが出てた。
トランクスの間から。もそっ、と。
おれはあらためて、自分の限界を知った。
今日は従兄弟の結婚式。
それに備えて、先日ちょっとオサレなメガネを新調したのだが。
どう見ても、どう低く見積もっても。
8○3だ。おれ、YAKUZAだ。
なれないスーツ姿で歩き回っていたら、肩がガチガチにこってしまったようで・・・家に帰ってどうにもギクシャクした体に違和感を覚えて熱を測ったのですがね、これがけっこうな高熱。
たぶん知恵熱。
冠婚葬祭、ときどきマジメに出てみると、いい社会勉強になりますね。
ところで昨日から、鼻と喉の奥辺りから血の味がしています。
唾吐くと血が混じってます。どうよこれ。
こうなてくるといよいよ本気でタバコを辞めようかな、と思い始めるのですが、たぶんおれの性格から言って40年は悩むことになりそうだ。あぁ、ぜったいそうだ。
個人的な見解を述べさせていただくなら、「尻の穴がかゆい」という表現は、極めて見当違いな表現であると思う。
尻の穴。
それは穴であり、空間であり、加えて言うならば、穴と言うものそれ自体が人間世界での虚無そのものを表す言葉なのだ。
そう、尻の穴とは虚無なのだ。
それは、ドーナツの穴が美味い、と言ってしまう滑稽さに似てはいないか。
虚無と言う、いわば空しく何もないということに「かゆい」や「美味い」などという生物的な表現を使うと言うことは、言ってしまえば神の気持ちを代弁するくらいのおこがましさがあるではないか。
それを踏まえて言うならば、「尻の穴」が「かゆい」ことなどあるはずがないのだ。
今までも、これからも、いや、永遠に尻の穴がかゆくなることなど決してないのだ。
おれは独りになっても、声を高らかに言い続けるだろう。
おれは尻の穴がかゆいのではなく
肛門がかゆいのだ、と。
ということで、次のライブ。
2月25日(木)
渋谷ウェステッドタイムにて。
約半月間もブログを放っておくとは、何たる怠惰。
ということで、思い出したようにぶちぶちと近況を綴ろうかと。
まず音楽なのだが、密かに今年の初ライブを先週終えて、いよいよ自主イベントの再会を計画し始めたところでございます。あとレコーディングも。今回はあんまり音を重ねずに、弾き語りテイストでできたらいいなぁ、と思っています。
最近、つくづくバンドが性に合っていないことを痛いほど感じます。自己チューですからねおれは。
で、釣り。
寒いので控えます。春になったらまた再開。キス釣り辺りから軽く流そうかと。
そして自転車。もう二ヶ月ほどで、憧れのGIOSが手に入る予定。うひょひょ。
あと病気ね。
コレはコレで絶好調の日々が運よく続いている気がします。
「病気が絶好調」というのはちょっと表現的にヘンだね。体が絶好調、ってことね。
トータルで飲む薬もだんだん減ってきているし。
要するに、日常を程よいリズムで積み重ねていると言うこと。
極めて最高潮に近い平常心で。
最高だね、人生は。
なんとか年内中には近所でカレイを、と。
と言うより、ウチの近所でカレイなんぞが釣れることをあまりにも誰も信じないので、なるべく早くそこんところを証明したかっただけなのだが。
釣れましたよ、カレイ。
近所のフェリー埠頭の運河で。ざまぁ見やがれってんだ。
2、3年前まで、何よりも音楽優先で生きてきたわけだが、これがどういうわけか今年は釣りと音楽のウェイトが微妙に同じくらいの重さになっているようで、年末のカウントダウンライブのお誘いを断ってまでも、大晦日はどうしても釣り場で新年を迎えてみたかったのです。
発信するのと同じだけ、受信が必要なんだなぁ、なんちて。
近所の海浜公園から臨む東京湾は、決して大海原ではないけれど、やっぱりどことなく海の威厳は携えているようで、潮の満ち引きの時には大きな波音を街中に響かせてくれる。
ガタピシ、ぐおぉぉーん、と港の倉庫街に入っていくトラックの騒音と、ざわざわと潮の満ちる音。
ときおり海面近くでギラッ、と踊る恐らくは鱸か何かの鱗の銀色。
一年を振り返るつもりなんて、もう微塵もないなぁ。
おれは毎日が最高潮だ。
なんて、素晴らしい世界。
薬を減らし始めたこともあってか、体調の波がデカイ。
10日に一遍くらい、背中に鉛の塊が乗っかっているような気分になるときがある。
今日はまさにそれの典型的な一日で、二時間位の間隔で血の気の引いたような状態に悩まされたり、相変わらずぐったりと重たい背中をうらやんでみたり。
ここ2、3日、妙な予感と言うか、そんなようなものがあったので今回も手酷いパニックに陥らずには済んだわけだが。
主治医が言うには、次の診察までの間に鬱の波の間隔がまた短くなっているようなら、改めて薬を元の量に戻すらしい。
それを踏まえて、完全にもとの体調、もとの生活に戻るには恐らく一年くらいは見ておいたほうがいい、と。
むぅ、なかなか薬を絶つのは難しいです。
さてさて、そんなド畜生な日々にもめげずに、Yo-Hendrixは今年の歌い納めが近づいていますわ。
12月18日 渋谷ウェステッドタイムで、今年最後のライブをやります。
なんと今回は嬉しいことに3マンライブ、さては演奏時間40分という好条件を頂きまして、溜まりに溜まった新曲なんぞを目一杯ぶちまけてやろうかな、なんて思ったり思わなかったり。
みんなよろしくね。
いやもうここんところ、体調が悪くて悪くて仕方ねぇ。
精神的に安定してきたところに、うじうじとナリを潜めていた風邪ちゃんがこんにちわだバカヤロウ。
うつ病と言うやつは、とことん風邪に弱い。
まず、風邪をひくと十中八九、自立神経系のなんだかよくわからん情けない症状が一緒に現れる。
ブックオフのレジ待ちで冷や汗が止まらなくなったり、突然呼吸のリズムを忘れたりと、散々だ。
そして風邪薬が効かない。というか、飲めない。飲むだけ金の無駄。んもう。
とりあえず症状が出る予兆みたいなのがもう完全に分かるようになってきたので。そんなに慌てふためくこともないのが救いだ。
そんなことよりも気がかりなのは新しく予約したGIOSの自転車。
4ヶ月待ちだなんて、もうそれは某売れっ子占い師やちょっとした高等な哺乳類の妊娠期間並に待たなきゃぁ手に入らないだなんていう。んもう。
相変わらずテレビや新聞はもうなんだか不況だなんだと不安を煽るばかりで、新しい生き方のひとつやふたつテレビの力さえあればいとも容易く提示できるだろうに、そういうわくわくするようなことをたったのひとつも映せないでいやがる。
ネットや小さな個人媒体が果たしてどれだけ正しいのかどうか分からないけれども、どれを信じていいか分からなくなった時こそ、自分で自分を信じて何かを選び出すチャンスなのかもな。
ちょっとそこまで、を旅に出来るなら、自転車もいいじゃない、と。
エンジン、おれ。
燃料、メシ。
漕げば前に進む。
今年はなんだかとても大事なものを選べた気がする。
カムチャッカの若者が きりんの夢を見ている時
メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女がほほえみながら 寝返りをうつとき
ローマの少年は頭柱を染める 朝陽にウインクする
この地球では いつもどこかで 朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ 緯度から 緯度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき 耳をすますと どこか遠くで 目覚まし時計のベルが鳴っている
それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受け止めた 証拠なのだ
~【朝のリレー】 谷川俊太郎~
おれの原点の詩。
無責任な希望も、独りよがりの絶望も、この詩には見当たらない。
ありのまま。
この詩を思い出すたびに、ヤル気や根気なんてどうでもいいけれど、勇気だけは持っていたいなぁ、と思うわけです。
時には微動だにしないという。
時にはひらりとかいくぐるという。
そういう勇気。
つべこべ抜かすな。
まず、君で在れ。
一番の問題は、おれ自身、他人の言葉に1mmも動揺しないことなのかもしれない。
会社の上司に怒られているときに、なんとなく、そう思った。
ここ一ヶ月は仕事で失敗続きの日々。上司の「お前は気が緩んでいる」という言葉に対して、「ほぉ、そうですか」としか言いようがないおれに、なんというか、呆れ半分の心強さを感じてしまったりして。
確かに、おれの病気も心の緩みに一因があることは否めないし、もしかしたら心をビシっ、と引き締めることで全てが解決するのかもしれない。
正直、なんだかよくわかんねぇんだなぁ。
「正しいこと」を楯に出されてしまうと、「ほぅ、そうですか」としか言いようがなくなってしまう。
「正しいこと」に、果たして自分の夢や哲学を任せるだけの価値があるかどうかも分からない。
分からない、と言うより、そこに価値を見出すことすらバカバカしくなっているのかもしれない。
要は、ほんのちょこっと、おれ自身が冷めているのかもしれない。
帰り道。
誰かが晴海ふ頭でトランペットを吹いていた。
悪くない夜だなぁ。
夜の路地に響くのは 聞き覚えのあるような
懐かしくていとおしい 涙だらけのメロディ
見も知らぬ誰かの 恋心を乗せて
ガードレールまたいでは 闇に消えていくよ
ブルーハーツ きっと誰もが泣く夜だ
丸い月に目を細め ひとつ指を打ち鳴らす
忘れたくて思い出した バカバカしい夢もある
独り歩く僕を その場限り飾る
うる覚えの唄なんて 信じないと決めたのさ
ブルーハーツ たぶん夢は叶うだろう
通り過ぎたはずの 確かめたはずの
そんな唄を今夜は ふと思い出したのさ
ブルーハーツ きっと誰もが泣く夜だ
ブルーハーツ ずっと夢は続くだろう
そっと口ずさむ夜だ
~Yo-Hendrix『ブルー・ハーツ』より転載~